結の人ゆいの人 代表取締役 川原徳昭
どうして、大工の子?父は、造作のデザイン・仕上げの美しさにとても気をつけていました。「欄間の仕上げは、一寸ちょっと厚かったな。」
天命父が突然亡くなった後、「川原建設をどうするか。」という決断を迫られました。「今ここで、止めた方がいい。」という税理士からのアドバイスを振り切り「私はやりたい。」とはっきり言った母。 柱の建て方を手伝った時には、“俺は大工になれない”とはっきり思いました。梁に上がれなかったですね、それどころか足場にさえ上がれなかった、怖くて。ましてや柱を担いでですからね。肉体労働の悲哀。大工とは命がけの職業。 それは、お客様に喜んでいただける家づくりを支える源であることを理解する経験であり、父が残した仕事は偉大であったと知る経験となりました。まるで子供のように「偉いなぁ・・・。」と感じた日々。
会社は「人」なり現場経験を積む一方で、下請けをやめて、「家を建てたい」と強く思うようになりました。その為に、会社の基盤を今一度見なおす必要がありました。「家をつくる」企業として再出発すること。それは到底、私一人でできることではありません。私と共に歩いてくれる、会社の核となる「人」が必要でした。 |
ゆい工房、誕生。「家をつくる」と一口に言っても、様々な家づくりがあります。高気密、外断熱、2×4・・・私たちはたくさんの家づくりを手がけてきました。常に「一番最適な家」だと信じて。輸入住宅についても「どうなのだろう・・・?」と考えたことがあります。お客様に喜んでいただける家をつくりたい。様々な思想遍歴の末、たどりついたのは、物真似でなく、ファッションや流行にとらわれない、「日本の家」でした。 「環境共生の街」をうたった長崎ハウステンボスが果たせなかった夢。その姿を目の当たりにした時、「家」は、文化であると確信しました。ただカタチを移植して、100年経っても、それは日本の文化にはなり得ない。 日本人の心の根底にあるのは、仏教的思想であり、その心に基づいた「日本の家」を私たちはもう1度、家づくりの中に根付かせていくことをやっていかなければならない。50年、100年経って、日本の文化となる家をつくることが天命を受け入れた私の選ぶ道ではないかと。
木の家が招いた新しい出会い岩手県産の無垢材で、オープンな広がり間取りの家を手がけるようになって、クラフトや芸術家の方々の作品にとても興味をもつようになりました。ケヤキの箪笥や上質な胴細工、可愛らしい木の小物。 そんな中ではじまった、地元の作家さんたちとの交流。「作品を置いてください!」彼らにとってもゆい工房の木の家は、自分たちの作品を置きたい数少ない空間であることを知りました。 |
そして、今。
今、もし自分に時間が与えられるなら、大工の修行をしたい、と真剣に思います。墨付けをして、カンナがけをして、自分の手で家を作ってみたいのです。
「到底、人間の技とは思えない。人はなんと素晴らしい力をもつ生き物なのだろう。」そう驚愕した、奈良の法隆寺、薬師寺。
設計図などない時代です。木を理解し、構造的空間を頭の中で組み立て、素晴らしい日本建築を遺した棟梁たち。
お客様に心の底から喜んでいただける家をつくりたい。
私は日本の伝統を受け継ぎ、次の時代に継承した、誇るべき大工の息子なのですから。