結の人ゆいの人 取締役会長 川原睦子

ゆいの人 取締役会長 川原睦子

腕一本の家づくり

主人は、青森ひばを使って家を建てる職人でした。
それはそれは腕1本で頑丈な家をつくりましたね。
後でお客様から、「あっちが悪い」「こっちが悪い」と言われない、見た目も本当にかっこいい家を建てる人でした。

主人の口癖は、「自分たちにとっては毎日毎日の仕事。でも、お客様にとっては一生に一回のこと。だから、キチンとした家を建てなくちゃいけない。」

商人でなく、本当の職人でした。
会社は大きくならなかったけれど、職人をとても大事に育てました。

「釘1本打つぐらい、測らなくても正確に打てなくちゃ、一人前じゃない。」

そういう話ばかり聞かされていましたから私も家を見ると、大工の腕が良いか悪いか一目で分かってしまう。

色々なお家を見る機会が今でもありますが、「よくこれでお客さんは“いい”って言うな。」と思ってしまうんです。

 

会社勤めから川原建設へ

私は47歳まで会社勤めをしていました。最初はパートタイマーでしたが、仕事ぶりを気に入っていただき、社員に昇格。大変でしたが、今思えば「経営の仕方」、「人を使う」力を、そこで身につけさせていただいたと感謝しています。
子供の大学卒業を機に、主人の仕事を手伝うため、退職。退職した2日後には教習所に行き、3ヶ月で車の免許を取りました。

時代の流れで、基礎工事や公共事業の土木もやったほうがいいとなれば、主人と一緒に現場に出て、力仕事を手伝いました。

びっくりされるけれど、私、何でもやるんですよ。
だから少しは外のこともわかっているつもりです。

 

 

突然だった、主人の死

地元のお祭りに参加し、中々帰宅しない主人を待ちウトウトしていると、突然自宅の電話が鳴りました。
「倒れている。」 「ひき逃げされたらしい。」
救急センターの集中治療室で眠る主人との再会。
「来た人は、みんな会わせてください。」
続々と集まってこられるお医者様。
今日まで元気に働いていたのに―。

私が川原建設の仕事を手伝うようになって、7年目の秋のことでした。

 

私が絶対、川原建設やるから

娘の結婚式を1週間後に控えていました。
結婚式はもちろん延期したのですが、そんなことを知らない主人はきっと必死で生きようとしたのでしょう、小康状態が1週間続きました。
そして“結婚式が終わった”であろう夜に容態はどんどん悪化しました。でも「もうダメ」とお医者様に言われても、また何故かもちなおすのです。血圧が上がっては、下がり、また上がって。

夜が明けようとした頃、私は主人に話しかけました。
「お父さん、現場に行って見てきたの?あのね、大丈夫だよ。現場は心配しなくても私が絶対、川原建設やるから。」

思い残していることがあるから中々逝けない、だからそう言うしかなかった。心に届いたのでしょうか、主人は今までの頑張りが嘘のようにすっと、静かに息を引き取りました。

 

約束

葬式を終え、いざ「本当にどうする」という話し合いになった時、「今ここで止めるのが一番良い、続けるのは大変。」という意見ももちろん出ました。その時、「ここまでやってきて、止めるわけにはいかない。」と言ったのが会社勤めをしていた息子です。
親も、親戚も、兄弟も、みんないた病室で宣言した主人との約束。きっと息子も聞いていたのでしょう。

「こんな小さな会社、いくら“私がやります”って戻ってきても、仕事をくれる人なんていないし、まずは人の心をわからなきゃならないから大工さん、土方さんと一緒に現場を何年かやって・・・、そうやってやるしかないんだよ。それ、できるの?」
「仕込み、よろしくお願いします。」
ボールペンしか持ったことのない息子を、初めて眩しく感じた瞬間でした。

 

「結」のゆい工房へ

本当にいい家って、お客様が「快適に暮らしています。」って言ってくださる家に尽きるのではないかと思います。
「会社はそんなに大きくならなくていい。大きくなったらいい物はできない。現状維持で、お客様に喜ばれる仕事をすることが一番大事。」
昔も今も変わらない想いです。

木と壁だけでつくられ、夏冬の温度差がなく、職人の技と共に、代々継承されてきた日本の「蔵」。「ゆいの蔵」は、正にゆい工房が建てようとしている家の原点であり、偶然にして必然の出会いでした。
年をとった人が気軽にお茶を飲める場所が少なくなっています。
「あそこに行くと、川原さんがいるからお茶を飲みに行こう。」って人が集まる場所になれば幸せです。
そして年をとった時の、私の大切な場所にしたい。

人と人が触れ合い、助け合う。
ゆい工房が“結”であるために。

 
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