津軽塗 気高き精神を宿す手 その1

 手仕事を訪ね歩くようになって5年以上になる。
これまで、60人ほどの手仕事の職人に取材させてもらったが、最近になってようやく、職人という人たちのことを理解できるようになったと感じる。そう思えるようになったきっかけは、職人の生きざまを雄弁に語る手と出会うことができたからだ。いずれも、心の奥底に刻みつけるような強い印象を残す手だった。
 そんな手を持つ一人が、弘前の津軽塗職人である岩谷武治さんだ。これまでに二度、岩谷さんを訪ねているが、最初の出会いから、岩谷さんの印象は深く心に刻まれた。
 昭和11年生まれの岩谷さんが津軽塗を志したのは、身体に障害を持っていたことがきっかけだった。他の人のように自由が利かない身体だからこそ、自らの手に職を身につけさせよう。そう考えた岩谷さんは、津軽塗を教える技術学校に入学し、昼夜を問わず、技術の習得に没頭した。卒業後は、塗師として活躍する師匠に弟子入りし、兄弟子に追いつき、追い越せと、技の研鑽を重ねた。
 こうした岩谷さんの経歴は職人としてはごく一般的な道と言えるだろう。技術を先人から学び、自分のものとし、生業として確立する。これができなくては職人としてはいつまでたっても半人前。職人というからには、それで生計で立てることではじめて一人前といえる。しかし、職人として、最も大切な時間は、その先の日々にあるということを教えてくれたのが岩谷さんだった。

 岩谷さんの生活は津軽塗のなかにある。朝、目を覚ますとまず仕事場に向かう。昨日の仕事を見定め、その日の仕事の段取りにとりかかる。塗りの行程を行うのであれば、漆を用意し、刃物を使うのであれば、研ぎなおす。その後、工房周りを掃除して、ようやく朝食となる。朝食後は仕事場での作業。ときおり休憩をはさみながら夕方まで手を動かす。そして、動かす手へのこだわりは途絶えることがない。道具や素材の吟味は限りなく続き、今身につけている手法の改良すべき点はないかと常に問い直す。すべて、表現したい世界を深めていくためだ。
弟子時代を含めると50年間にわたって、岩谷さんは、こうした生活を続けてきた。その間、弟子をとったこともあったが、基本的には、最後まで自らの手で作り上げるということを貫いてきた。キャリアを重ね、津軽塗の重鎮として君臨することも可能だったはずだが、ひたむきな職人であり続ける。

人は誰しも自分に甘くなるときがある。自分に厳しくと常に心に刻んでいたとしても、それを実行し続けるのは簡単なことではない。ましてや、自身の仕事の良し悪しを測る尺度もすべて自分が決めるという立場にあれば、知らぬまに緩んでしまうこともある。
実際、僕自身にしてもそうだ。写真を撮り、文章を書くということを生業としているが、基本的にその良し悪しを決めるのは僕自身だ。もちろん、最終的には周囲が僕の仕事を評価していくのだが、世に送りだす瞬間までは、僕自身の判断に委ねられる。ゆえに、ときにはいろいろと理由をつけて、自分ではもうひとつと思える出来栄えであってもOKを出してしまう。
 一人でモノ作りを続ける職人にとって、これは大きな問題だろう。こだわればコストに跳ね上がる。こだわりを理解してもらえない。素材が悪い。良い道具がない。時間がない。自らの仕事を妥協する理由は簡単にいくらでも見つかる。
 岩谷さんの仕事ぶりが多くの人の心を打つのは、こうした妥協から無縁の場所に立っているからだ。
「気高さ」。僕が岩谷さんの津軽塗作品を見たときの感動を呼んだのは、この一点からだった。
お盆、椀、座卓など、岩谷さんは、さまざまな生活用品を塗りあげる。その際、唐塗、七々子、紋紗、錦塗など、津軽塗伝統の技法が駆使されるのはもちろんのこと、独自の漆絵が、新鮮な美を添えて、完成度を高める。しかし、何よりも、こうした一品一品に宿る曇なき気高さがどこまでも続くといった気配に驚かされる。一枚の小さな唐塗の皿を前に、満点の星空を仰いだときのような、思わず吸い込まれるほどの感覚を覚えるのは、きっと僕だけではないだろう。