津軽ヒバ曲げもの~手仕事の意味 その1

 弘前の北にある藤崎町で境勇三さんという職人がいる。
手がけるのはいわゆる曲げもので、柄杓や弁当箱などを作っている。
 曲げものといえば、秋田杉を用いた大館の曲げわっぱが最も知られるところだが、境さんの場合は、土地の素材であるヒバを使用する。作業工程は、大館曲げわっぱもヒバ曲げものもほとんど変わらない。大ざっぱに言うと、薄くカンナがけした部材を釜で煮た後、頃会いを見計らって、一気に曲げるというものだ。もちろん、ここに至るまでにも熟練の技を必要とするわけだが、やはり曲げ加工が、曲げもののクライマックスである。実際に、作業を眺め、「曲がる」ということがすでにわかっていても、ただ煮ただけの板がくるりと輪を描くことはにわかには信じ難い。

そして、この「信じ難い」という感覚を自分の中に見つけるたびに、自らの発想の貧困さを思い、同時の木の持っている可能性に感じ入ってしまう。木は、本当に柔らかい。曲げものに触れるたびに思う。
 そして、さらに驚くのは、この曲げものの技術が、実は秋田や青森だけではなく、日本中、いや世界中に存在するということだ。その起源については諸説あるようだが、いずれにせよ、遥か遠い時代、わずかな道具しか持ちえない人類が、容器を得るために知恵を駆使し、試行
錯誤を繰り返し、たどりついたのが、木(板)を曲げるという行為なのである。
ちなみに同じ木を使った容器に、桶や樽があるが、こちらの方が曲げものよりも複雑な加工や道具を必要とするため、ずっと後になっての技術なのだそうだ。

 戦後しばらくは、弘前や青森を中心に幾人も存在した曲げもの師だが、現在、ヒバ曲げものを手掛けるのは境勇三さんただ一人となっている。
「気がつけば、最後のひとりさ」と境さんは淡々と語るが、ヒバまげもの全盛の頃を生きてきただけに寂しい状況には違いない。衰退の理由は、やはり生活の変化だ。
たとえば、ヒバ曲げものを代表するものに、柄杓がある。神社や墓参りなどで使う柄杓は今も需要はあるが、かつての人気商品だった、田畑に肥を撒くための柄杓は、年間を通してほとんど注文がない。それもそのはず、現在、肥を柄杓で撒く農家など存在しない。
また、セイロを使う家庭は少なくはないが、購入するのは中国製などの安価な品で、高価なヒバ製の品にこだわる人は少ない。さらに、かつての便所は戸外にあっため、足腰の弱った老人は冬の時期になると、漆を塗ったヒバ曲げものオマルで用を足した。住宅環境が大きく変わった現在、このオマルの出番はなくなった。
 とはいえ、すべての仕事がなくなったわけではない。境さんは、曲げものはやはり地元のヒバを用いたものと考える人からの注文を受けて製作している。