津軽ヒバ曲げもの~手仕事の意味 その2

 境さんの仕事ぶりを見せていただき、ふと気付いたことがあった。その作業のなかにいわゆる電動工具が全く存在しないのだ。木を切る、割る、削る。すべての作業が、鋸、鉈、センといった手道具で行われる。
 現在の手仕事を見渡してみると、電動工具の持つ意味は重要である。悪い意味ではなく、多くの職人たちが手仕事と言いつつも工具の進歩に助けられている。もちろん、常に手による感覚が欠かせないことは言うまでもないが、工具を使える工程で工具を使うことで効率が上がり、それによって価格も抑えられる。
 現に、大館曲げわっぱの作業工程は、曲げ加工は手によって行われるが、カンナがけ等はすべて電動工具で行われる。大館の職人に言わせると、手でカンナをかけるよりも電動カンナの方が遥かに速く、また正確で美しい仕上がりになるのだという。
 そういう意味では、境さんの手道具のみで作った曲げものを仔細に見てみると確かに無骨な気配が感じられなくもない。

 それはいずれも、手鋸、斧、カンナと、手の道具による跡なので、高度な技術の証明でもあるのだが、もし、手仕事を知らない人が見れば稚拙な仕上がりと思うかもしれない。 

 境さんの作った柄杓をじっくりと眺めながら手仕事の意味を考えた。言いかえれば、手仕事でなくてはならない理由だ。優れた工作機械が在れば、大館の曲げわっぱ職人がいったように、手作業よりも優れた結果が出せるかもしれない。そうなると、手による作業の持つ意味は何なのか、正直、戸惑いを覚える。
 機械は言うまでもなく大量生産に向いている。一方の手作業は小回りが利く。使用する者に合わせてカスタムメイド的な作りをしやすいのは手作業だ。また、素材が木という変化に富んだ素材を扱う場合には、各々の素材の性格を見極めながら作業できるのも手仕事だ。しかし、こうした違いは、オートメーション的な機械作業に対して認められるのであって、人の手で扱う程度の電動工具と手仕事を分ける差異ではないように思う。
 となると、境さんのように、電動工具を使えば容易に行える作業を手で行うことの意味がやはり見えにくい。
手仕事の意味を「ぬくもり」や「こだわり」といった感覚の世界に置き換えるのはたやすいが、それが答えなのだろうかという疑問もつきまとう。安易な答えに逃げてはいないかと。
 しかし、感覚というものは決して軽々しく扱ってよいものではないとも思う。結局、僕たちはどこまでいっても「人」なのだ。生きている人間が作り出し、生きている人間が使う「道具」。ここには、言葉に単純に置き換えることのできない世界もまた存在するだろう。それは、たとえば、画家が全身全霊を込めて描いた絵に多くの人が心動かされることや、100mを美しく駆け抜けるアスリートの肉体美に魅了されるということにもつながっていくだろう。
 また、機械には原則的に偶然は生じないものだが、人の行為は良くも悪くも不安定だけに偶然性に左右されることが多い。ある偶然をきっかけにして素晴らしいものが生まれるということは、創造の常だ。そもそも曲げもの自体、何らかの偶然から生まれたに違いない。人の手の不安定さは、可能性と置き換えられるだろう。

 進化し続けるテクノロジーは、今や生命さえも複製せんといった勢いである。しかし、その一方で、人はわずかな肌のぬくもりを求める生き物でもある。境さんのように厚く大きな手によって生み出されるものが、大きな意味を持たないはずはない。人はいつの時代であっても、人間性を求める。そう、僕は信じている。