タイマグラで生まれる桶 その1
北上高地の最高峰である早池峰山の懐深くに「タイマグラ」という小さな集落がある。この土地に暮らし続けてきた古老をドキュメントした映画「タイマグラのおばあちゃん」で知られる集落だ。
もともとは戦後の開拓集落だったらしいが、一時は離村する人も多く、人口が激減した時期もあったらしい。しかし、現在は、タイマグラに魅かれ、移り住んだ人たちによって、タイマグラらしい自然と共にある美しい暮らしが続けられている。
僕がこのタイマグラに、桶職人である奥畑正宏さんを訪ねたのは、数年前のことだ。早池峰山には何度か足を運んだこともあって、タイマグラという土地の存在は知っていたが、そこに暮らす人を訪ねるのは初めてのことだった。
タイマグラまでの道のりは、当然のことながら山道。舗装はされているものの車一台がやっと通れるほどの林道が沢沿いを登っていく。周囲には深いブナの森が広がっていて、本当にこの先に人の暮らす集落があるのか思わず疑ってしまうほど。恐る恐る森の奥へ、森の奥へと進んだことを記憶している。
そうしてようやく辿りついたタイマグラは、想像していた以上に美しい場所にあった。集落のそばには、薬師川が清冽な飛沫をあげて流れ、大気はどこまでも清浄な気配を帯びていた。初夏という時期もこの土地の美しさに磨きをかけていたのだろう。葉の一枚一枚が陽光と溶け合い、森全体が眩しいほどの輝きを身にまとっていた。
そして、その森に、木槌の音を響かせていたのが奥畑さんだった。
若い頃から各地の手仕事の現場を訪ね歩き、自分の求める世界を探し続けたという奥畑さんがこのタイマグラに魅かれ、桶づくりの工房「桶正」を構えたのは1994年のこと。桶づくり専門の職人の元で修業したほか、方々の桶職人を訪ね、技術を研鑽してきた。
かつては、どこの町にも存在したという桶職人だが、生活のスタイルが変わり、桶を使うことが少なくなってきたことで、桶を製作する現場も少なくなってきた。そのため、訪ねた先の桶職人は皆、桶づくりに夢を抱く奥畑さんを歓迎し、なかには大切な道具を譲ってくれた人もいたという。
奥畑さんの工房では、こうした先輩の手垢のついた道具たちが整然と並び、奥畑さんの手に握られる時を待っている。その道具類を見ていると、桶職人たちの桶への思いの深さが伝わってくるようだ。
奥畑さんが手がける桶は、どこからどう見ても正しき桶だが、作り手の感覚なのだろうか、少しだけ繊細な気配が漂う。それが現代の洗練された生活スタイルにも受け入れられている要因のひとつなのだろう。しかし、奥畑さんの桶の素晴らしさの中心を成しているのは、こだわりの伝統技法だ。それらを象徴しているのは「竹釘」の存在だろう。
一般的な桶は、側板と呼ばれる部材をつなぎ合わせ、タガで締める。もちろん、側板同士の精度もあってのことだが、このタガの力によって、水が漏れ出すことがない。とはいえ、木は生き物。湿度や気候などによって、痩せたり、動いたりする。タガの力だけでこうした側板の動きを止めることは難しい。そこで、奥畑さんは竹釘を使う。一本一本手作りした竹釘を、合釘として側板と側板の接合部に打ち込み、つなぎ留めるのである。
本来であれば、桶はこうして作られてきた。しかし、今、多くの桶の現場では、竹釘の役割を接着剤が引き受けている。接着剤はきちんと使えば、非常に優れた性能を発揮する。たとえば、集成材で考えた場合、接着剤で張り合わせた部分の方が、無垢の部分よりも高い強度を誇るという。桶においても、接合の強度だけ見れば、接着剤の方が優れているのかもしれない。
また、接着剤を使えば、当然、手間も減る。竹釘を作る必要がなくなり、高い精度が求められる合釘を打つ技もいらない。
それでも奥畑さんが、竹釘にこだわるのは、やはり、桶は人に近い存在だからだ。米を保管する米びつ。炊き上がったご飯を移すおひつ。素肌が触れる風呂桶に手桶。産湯桶になると生まれたばかりの赤ちゃんの素肌が触れることになる。一度固まった接着剤が容易に溶けだすことはないかもしれないが、人の口に入るもの、素肌が触れるものはできるだけ自然素材の方が良いのは当然のこと。
ましてや奥畑さんの桶づくりは工業製品ではなく昔からの手仕事。接着剤を使わなくて済む方法があるであれば、少々手間がかかってもその方法を選択するというのが、奥畑さんの考えだろう。
自身で採集してきた竹から、釘の一本一本を手作りする。南部桶正の桶は細部にまで、職人の手の跡が残っている。