岩谷堂箪笥の世界 その2
僕はこれまで何度となく、及川さんらが作る岩谷堂箪笥を撮影してきたが、それは大きな緊張を強いられる仕事でもあった。
箪笥を撮る場合、大型カメラを使うことが多いため、暗布をかぶって箪笥を見ることになるのだが、ピントグラスに映し出された箪笥はいつ見ても美しいのひとことに尽きる。
いつまでも見飽きることがないケヤキの木目の宇宙。威風堂々、風格にあふれた金具。精緻に組み上げられた木地の端正さなど、どこを見てもほれぼれする。だが、撮影となるとそう簡単なことではない。
箪笥を箪笥らしく当たり前に撮ることがいかに難しいか。それは経験したものでないとわからない世界だろう。まず、その形。箪笥の持っているフォルムをきちんと表現すること。それには適切なレンズの焦点距離と角度が不可欠。さらにはアオリという大型カメラならではの特殊な技術が必要とされる。このあたりは、ある程度経験を積んでいるからクリアできるのだが、難しいのはその先だ。
岩谷堂箪笥の表面は、たくさんの金具で飾れている。この金具と黒と、塗られた漆とその奥に見える木目の色を適切に表現することが非常に困難なのだ。漆は、角度によっては鏡のように反射して、木目を隠し、金具は光って、黒ではなく銀色となる。それをカメラの設置角度で逃げようとすると、箪笥の形がゆがんでおかしくなってしまったり、それを避けるため人工光を組み合わせてということになると、どんどん大がかりになってくる。
何よりも漆というものは撮れば撮るほど不思議な存在ということがわかる。飴色の半透明な物体と考えていると大変な目にあう。感覚的な話でいうと光を吸うのだ。つまり、教科書通りの適切な露出を与えるだけでは、奥に秘めた木目まで光が届かず、フィルムには写ってこないのだ。1mmにも満たない塗膜になぜこんなにも苦労しなければならないのかといつも悩むのはそのせいである。
しかし、だからこそというか、学ぶことも多い。カメラの操作についてはもちろんだが、岩谷堂箪笥についてだ。理由はとにかく、じっくりとよく見るからだ。凝視すると表現してもいい。目の前にある箪笥をそれこそ、穴があくほど眺め、撮影を進めていく。すると、箪笥が実によく見えるのだ。
たとえば、木目の流れが、引き出しで途切れることなく表面全体でダイナミックに流れていること。金具の取り付けバランスがいかに精妙な状態であること。漆の艶がムラひとつなく、全体がひっそりと雨に濡れたかのようであることなど、箪笥の持っている美の世界が立ちあがって見えてくるのである。そして、それがすべて人の手によって生み出されたことを思うと、及川さん親子のモノづくりへの執念の底深さに、ただただ敬意を払うばかりだ。
美しいだけではない。堅牢であること。そして、そこに人の手の痕跡があること。僕はかねがね、モノとは、この三つを備えてはじめて、使い手にとって本当に愛着の沸くものになると信じているのだが、岩谷堂箪笥は、まさにすべてを兼ね備えている存在。こんな素晴らしいものが地元の岩手にあり、それを今も作り続けている職人がいることを僕は誇りに思う。
手仕事の取材をはじめて早いもので、もう7年近くになる。その間に出会ったものはなるべく購入させていただいてきた。道具であれば自分の手で使ってみたいし、玩具であればそばに置いて眺めてみたい。率直な気持ちだ。
ところが、残念なことに岩谷堂箪笥だけはまだ手に届かない存在だ。目を閉じれば、金具の細部、木目の流れを想像することもできる。手触りさえ、手に残っている。
しかし、やはり最後は経済的な理由というか、住環境の問題というか、岩谷堂箪笥と縁をつくることができないでいる。「いつか必ず及川さんたちが作った岩谷堂箪笥を」と撮影のたびに強く思うのだが、今のところ、カメラの中に閉じ込めるのが精一杯である。
近年、及川さんらが作る岩谷堂箪笥がヨーロッパでも人気を得つつあるという。和の美しさに加え、使い込まれても、アンティーク価値が高まっていくその存在がヨーロッパの価値観と合っているのだという。ヨーロッパの住空間の中にある岩谷堂箪笥はどのような表情なのだろうか。いつかは、海の向こうで何十年も愛された岩谷堂箪笥を見てみたいと思っている。